ツインレイとともに~ワクワクな凄い時代になってきましたね~

ツインとか、アセンションとか、私たちふたりの体験と体感記

テレパシーが開花したときの参考にどうぞ♪

 

テレパシーが開花したとき

相手がツイン本人かどうか?・・という疑問は

誰しもが浮かんできてしまうものですよね☆

 

これまでの、真実のツインの皆様方の様子を観ていると

テレパシーの始まりのときには、一定のプロセスがあることがわかります

 

今日は、そのことについて書いてみましょう

今後のご参考にしていただければ♪

 

かのプラチナツインレイさんのブログ・・

「セクシュアルなエネルギーの交流の果て・・」

にもありますように

最初は、スピリットが、テレパシーの仲介をつとめています

手が動いたり、その他身体の一部を使って、

二人だけにしかわからない方法で、

相手の気持ちや想い、考えを伝えているのです

 

この時点では、いわゆる・・相手らしさ 

相手本人の生身の人間らしさ、を感じることはないでしょう

 

また、相手との直接の会話が可能になる以前に

ガイド達やハイアーセルフ、 I AMと繋がります

 

つまり、相手のツインと本当に直接話しができるようになるのは

結局はいちばん最後、と、いうことですね?

それくらい、ホログラムシステムというのは、

融通のきかないモノだということなのです

 

 

ガイドやハイアーセルフ、I AM と話しをするとき

彼らがどの位置にいるのか、実は、決まりがあります

 

まず 、I AM は・・

首の付け根のちょっと下、左右の鎖骨の間の少し下くらいの位置で

その存在を感じることができます。

 

ハイアーセルフは、頭の左上。

 

ガイド達は、頭の右上。

 

この辺りで、彼ら彼女らの音のない声をキャッチすることができます

 

で、相手のツインの生身の声は、

顔面下・・鼻と口の辺りの奥の方で響いてきます

 

テレパシーをキャッチし、また発信するときは

しぜんとそれに集中してしまうものですが

その時、自分のカラダの内側に注意深くあると

相手が、上記したような場所で語っているのがわかるようになってきます

 

どうぞ、感じとってみてください

どの声が、どの辺りから響いているのかを・・・

 

そして、テレパシーの会話が始まったら

相手が誰なのかを、ちゃんと訊くようにしてくださいね?

テレパシーが繋がったからといって、

最初から相手のツインだと過信しないように・・

 

そうしてね?

相手のツインと正真正銘直接お話しができるようになると

相手のちょっとした仕草や表情、クセとかいうものが

自分のカラダで、随所に感じ取れるようになります

 

普段から慣れしたしんだ、愛する人のこーゆートコ、あーゆートコ・・

それが感じられることのなんという愛おしさ☆

 

私は、彼の生身のそういうトコが感じられる瞬間が大好きで

嬉しくって幸せでたまりませんでした

「ああ、本当にこの人は、あの愛する男性(ひと)なんだなあ・・」って

しぜんと笑みが浮かんでしまったものです

そうすると、私の浮かべたその笑みがそのまんま彼にも伝わって

彼は・・・、照れてしまうんですね くす♪

 

あ、ここで思いだしました

 

相手のツインの声は、鼻と口の辺りの奥の方、といいましたが

彼が彼女のなかに入っているとき・・

彼女が彼を受容しているときは

この声がハッキリと響きます

 

そして、彼が彼女のなかに入っていないときは

この声の響きが小さくなります

遠くで話しているような感覚・・かな?

 

テレパシーでも

いろーーんなパターンがありますでしょ?

 

多次元の世界を、ホログラムの生身のカラダで体験体感するというのは

ほんとうに新鮮な驚きの連続です

 

テレパシーが開花してゆく今この時にしか経験できないその瞬間瞬間を

いとおしむように・・だいじに だいじに 進んでいってくださいね

 

 

ここでひとつ追加事項です♪

 

上記でリンクしたプラチナツインレイさんの記事の補足です

 

今この時点のスピリットの在り方・・なのですが、

 

新生地球・超新生地球にゆく人達は、

もうハイアーセルフとして在ります

 

いっぽう、新生地球・超新生地球にゆかない者達は、

ロウアーセルフとして在ります

 

これは、テレパシーと感じているその現象が語っている事が

ハイアーセルフのものか、ロウアーセルフのものかに違いがでているということです

 

ハイアーセルフは、当人にとってベストなものをもたらしますが

ロウアーセルフは、当人のエゴそのものしかもたらしません

 

これも、いまのホログラムは、個人個人が、自分だけで創造しているという

その自分の内面そのままを体験しているということに他なりません